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Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

Chiropractic 健康はカイロプラクティックとともに 

◇ 考える事は哲学だ 


予防医学の カイロプラクティック

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RMIT大学のサイトはこの字を クリックして下さい。

考える事は哲学だよ 何でも考えてみよう 独断と偏見の コーナーです 

このごろ「 哲学 」 と言う言葉を 聞かなくなった。

でもなんで、 この言葉が 使われなくなって来たんだろう?

学生の頃の 「 哲学 」 のイメージは、 「 難しい 」 「 難解だ 」 に尽きるでしょう。

じゃあなぜ、その様な理解に なってしまったんでしょうか?


考えてみましょう。

実際 私も学生の頃、 哲学講座を学びました。

しかし全く、 チンプンカンプン だったのです。

どうしてなのかと 何時も考えていました。

そうすると その時には判らなかったのですが、 私自身の 「 ものの捉え方 」 に問題があったのではないのか?… という思いに、 今はなっています。

それはどういうことか、 と言いますと、
哲学を、 知識として捉え、 覚えよう… としてしまっていたからだと、 反省したのです。


哲学は、 『 知識として 考えるものではない 』  という事を理解していなかった事が言えると思います。


じゃあなぜ その様に、 知識的に 哲学を 捉えたのでしょう?

それは 「 過去に私達が受けてきた学校授業の在り方 」や「この国の教育そのもの」 に関係していると思います。

大学生に成るまでの 学問に対して感じる事は、 「 理解する事ではなく、 知識を詰め込む、 覚える」 という事だったと思います。

あくまで 「 答を導き出す 」 という、 クイズ形式の学問のあり方だったと思います。


どうも この様な感覚のままで 大学に入ったものですから、 「 哲学 」 を「 覚える学問 」 として認識し、 考えていたと思うのです。


それはやはり それまでの勉強方法が、良い点数を取るための 「 試験のための学問・勉強 」 に成ってしまっているからだと、 思うのです。

「 試験のための学問・勉強 」 が今までの勉強ではなかったか、 と思います。

これでは 人間が本来から持っている、 豊かな創作力や創造性など、 生まれるはずはありません。

想像力や 創作力は、 一片の知識で 生まれる事などあり得ませんし、 到底、 創作力を身につけることは 無理な世界です。

創作力・想像力 は 「 考える 」 という、 人間にしかない 心からの能力を駆使し、そこから 現れるエネルギー だからです。

そして また学校授業の問題は、 どうしても 「 試験のための授業 」 になっている為、 考えて理解するという行動が 採りにくいという事になります。


もっと端的に言えば、 現在の学校授業には、 生徒に対して 「 想像力・創作力は 必要がない 」 のだ、 と断定するかのような 授業になっています。

だから、 先生もその教育要綱に従って 授業をしなければならず、 心の無い 知識一辺等な授業 をしなければ成らなくなってしまいます。

先生が書く字を ノートに書いていく。 生徒は 無機質な単純作業 をしているだけの授業を受けるしかない。

それが当然であるかの様に、 先生方も 自分の生活・家族のために、 指導要綱に従って 生きている。 これでは生徒は 全くつまらない授業を 受けるだけですね。

そこには一辺倒の知識しかなく、 そこに書かれている字の意味や内容を、 考える事はしない。 いや、出来ないのが 当然です。

ただ 無機質的に書かれている字を 覚えるだけでは、 「 哲学 」 する事は出来ないのは 明白です。


実際学校で、 「 ソクラテスは こう言った。 プラトンは この様に答えた。 だが その内容は難しい 」 と、 専門的大学教授大先生様が 大講堂の授業で言うのですから、 これではまるっきり哲学にはなりません。 

これじゃあまったく、 聴講する学生が 判る訳ないじゃないですか。

どうしてその内容が難しいのか? それを互いに討論し、 話し合って初めて 問答と同じような哲学になるんです。


かつてソクラテス はギリシャの道を歩いていて、 当時の若人に いつも問答をしました。

それは 彼があえて 問答を仕掛けて行ったと 言われます。 遠慮なく 積極的に。

彼は 若人と他愛も無いことで、 問答をしていたようです。 しり取りのように。

そして その問答を通じて、 若人が 考える力を 身につけて行ったようです。

坊さんが 辻説法 し話し合うことと同じように、 彼もまた 問答をしていったのです。


例えば、
「 どうして象は鼻が長いのだろうか? 」 という 質問を若人にします。

そして 若人はそれに対して、 自分の思う考えで 返事をします。

そうしたら 彼はまた、
「 じゃあなぜそうなるんだろう? 」 とまた彼等に 関連した疑問を投げつけます。

それを 延々として 繰り返して行くというのです。


それを繰り返す事で、 物事の追求と、 究極の世界に 到達しようとしていたんだと思います。

そして そうこうしている間に、 若人は 問答に対して 楽しみを持ち、 真剣に 成って行きます。

追求の言葉は どんどん続きます。 そこには 妥協はありません。 真剣勝負 のようになって行きます。

だから、 もっともっと 質問が起こります。 この繰り返しなんです。


哲学 という言葉を利用してから、 現在の学者達は この問答を、 学問として 発展させてきました。

しかし どうして哲学的問答を、 この様な 詰まらない学問という事にしてしまったんでしょうか?


私は 思います。

宗教 と言われている、 仏教やキリスト教、 その他 あらゆる宗教・教団。

またこれ以外に、 何とか学、 何々学という、 学問体系が 現在作られていますが、

これらは 現在の宗教家 が信じている 経典や仏典が、

「 仏陀や イエス様や 賢者の言葉が、 そのまま 彼等が書き残し 文書化され、 伝承されている 全く正しいそのままの正直な言葉ではない 」

ということを、 理解されているかどうかは 疑問です。

現在でも 仏典や聖書を覚えるだけの 「 形骸化された宗教 」 にさせ、 宗教家 その者が 宗教で飯を食うようになってしまっているのが 現実ではないでしょうか?

また 形式的な宗教的行事を行う事も、 大きな矛盾になっています。

ブッダやイエスは「法」を説いただけで、大きな殿堂を求めた訳ではありませんでした。

説法をする時に、儀式的に行事を行うことなど皆無でした。
ただ心の話、心を綺麗にする道を説かれただけでした。

仏陀も イエスも 「 心の愛、慈悲 」 を説いていただけで、 宗教行事・形式 などを 教えてはいないからです。

彼らが 行事を教えた事は 一切無いからです。

イエス様は 約三年間の短い伝道時間で、 今世紀に至るまで 多くの人々の心に 共感を与えています。
そして ブッダ様は 長い伝道活動で、 多くの弟子を作り、 その教えを伝えるために その弟子達は 分散して行きました。

でも 仏陀様の弟子達は ブッダ様の教えを 形式化して伝えてはいませんでした。
ただ ブッダ様の言葉を、 仮に自分が仏陀様だったら どうするかを考え、 できるだけ 正確に 伝道して行っただけです。

彼等の話は 現在の世界中の宗教界に 共通化する、 各宗派の 形式的な宗教行事の一環として、 その宗派の教義に 関係するお話では 決してありませんでした。

そのお話の中身は 総て、 生活に密着したお話で、 そして個人の心の調和を目指す道を 教えて下さっているのです。

しかし今我々は、 宗教を 形式的なものとして捉えている‥ だけではないでしょうか。

そう、 捉えている‥ 知識として、 宗教というものを 行事(祭祀)として理解しているだけなのです。

これでは 仏陀や イエス様が 我々に伝えられた心が言葉が、 この現在の世界に 息づいてはいない、 と言えるのではないでしょうか。

殆どの宗教家が、
形骸化した その行( 形・祭祀 ) を行っていれば、 仏陀や イエス様の 心に近づいたと、 ただ「 錯覚・幻想 」 をしているだけにしか 過ぎないのです。


どうして我々は この様な理解が 出来ない人間に、 成り下がって しまったのでしょうか?

やはり 「 考えない 」 「 追求しない 」 ということに 尽きると思うのです。

本当の 「 哲学 」 が 無くなったからだと思うのです。

我々は 「 哲学は 難しいもの 」 として、 難解なものとして 捉えているからなのです。

そしてまた、 本を 読まなくなってきた、 のも その原因です。

漫画が 増えてきたのも、 単純に目という 「 五感 」 の機能を利用して、 手っ取り早く 理解しようとするが余りに、 創造する行為を 自ら放棄してしまったんだと思います。


また 人が反省する事が 苦手になってきたのも、 この理由から 明白に成ります。

反省するには、 考えなければなりません。 振り返らなければ成りません。 相手が居るなら、 相手の身になって 考えることが重要に成ります。

そして 出来事の事実を 「 在りのまま 」 に受け取らなければなりません。


しかし 人は 「 素直に 在りのままに 受け取る 」 という行為が、 判らなく成って 来ているようです。

それは、 五感として 感じる目に見えている事だけを、 在りのまま… であると 錯覚しているからです。

実は 五感に触れて 感じているのは、 在りのままではありません。 それは「 錯覚 」 なのです。 触覚で 感じているから、 在りのままではないのか? と思われることと同じです。

それよりも私達は、
心の底から 感じる感覚を、 もっと大切にして 行かなければなりません。


自分が 反省する事は 全てがこの事実ばかりです。

未来への反省が ありますが、 それはもっと先に 進んだ時に起こります。

しかし 殆どが 過去への反省でしょう。

それには、 過去・現在 にあった事実を、 「 在りのまま 」 に理解しなければ 反省は困難です。


自分で 勝手に錯覚をして、 過去の思いを捻じ曲げて、 人生を 生きている事もあるでしょうし、 生意気に思い上がって 他人の気持ちを 理解できないまま、 心が 子供のまま 大きくなってしまった人も 沢山いることでしょう。


しかし 殆どが、 この 「 五感 」 を通じて 感じた事が 当たり前、 それが現実だという 物事の捉え方を 心の中心に置いて、 生き続けて来た だけではないでしょうか?

五感…… 目、 耳、 鼻、 口で 感じる感覚と、 触覚です。 肉体で感じる感覚です。


心の中で 感じていた考え方、 心理的な事、 捉え方、 そしてその思いをどれだけ 「 五感 」 に左右されずに、 理解しようとして 来たでしょうか?

殆ど純粋に、 考えるという行為… をして来たのでしょうか?

でも、 気が付いた時点が、 出発の時です。

気が付いたのが、 遅い早いには関係ありません。 気が付いた時点が 始まりなのです。

反省も哲学も、 元は一つです。

この日本の宗教も、 元に辿り着けば、 すべて 仏陀の教えなのです。

創価学会も 何とか宗派も、 中国・チベット に縁を持つものは 全て仏教です。

だから宗派を嫌って、 言論戦争している 宗教家がいますが、 本当に何も判っていない事を 暴露露呈しています。 笑い話です。

そして 世界中の宗教は、 全て元に辿り着けば、 神様の教えなのです。

仏陀も イエスもモーゼも、 全て 神様がお遣わしになられた、 大天使です。

その彼等が、 天上界の言葉を我々に お示しに成られたからこそ、 我々は 歴史を通じて 理解させて頂けるのではないでしょうか。


どうして この世界が混乱しているのか、 わかりますね。

それは 世界中の国々で、 人々の心の中に、 「 神様の存在 」がない、 または 判らなくなったからなのです。
その存在さえも 理解できなくなってしまったからです。

これは 誰もが 必ず 気が付かなければならない事実です。


自分の目に 見えないからといって、 神様は 存在しないのでは 決してありません。

我々には 理解できなくとも、 神様は 全てをお与え下さっています。


人間だけではなく、 その他の 生命全てにおいて、それは動物、植物、 鉱物において、 その全てに 神様がお与え下さっている 慈愛が存在しています。

そこには 決して神様の 「 自己主張 」 が無いため、 我々は 全く気が付かなかった だけだったんです。


そして 神様は 個人的な 利益を与えるお方ではない ことも知っておきましょう。

全て 「 平等 」 にされています。 ただ人間の感覚で、 平等が 理解できていないから、 本当の平等が 判らなくなっているだけなんです。

生きる事、死ぬ事、人生の形成、その他もろもろが全て平等であり、我々の人生を生きられるように、誰にも公平に全てを与え下さっています。

ただそれを理解するだけで良いのに、それが判らないだけなのです。


科学者と称する学者も、もっと注意深く慎重に、丁寧に学問をすれば、そしてもっと深く研究・探求をすれば、神様の存在感が理解出来ます。

世界の著名な科学者は、研究の結果、行き着くところまで行った研究者は、異口同音、神の存在を肯定されています。

どうしてもそう考えないと判断が出来ないからなのです。


地球上の全てが、自然に勝手に出来上がったものではない事が理解でき、本当に研究されている方は、神様の存在…を理解する事が出来るのです。


勝手に無造作にこの地球が出来たとするのなら、この自然秩序そのものが存在する事は本来ありえないのです。

そこに「自然界を支配しているルールが存在している」事に、しっかりと気が付くことが大切だという事でしょう。

それを理解しないと研究がすすまない、とまで言われています。

「UFO」「幽霊」などを否定する事はとても簡単です。

しかし「神の存在」を示す事は、目には見えないだけにとても難しいのかも知れません。

だからとある学者はプラズマで全てを推し量ろうとするのでしょう。

ホッチキスかキッチュかよくわかりませんが、同じ穴の狢です。

でもまた表面的に何でも賛成するのも、これもまたゴマか玉か判りませんが、同じ穴の狢になる危険性が存在しています。

学問をしなければ神の存在に気が付けないのでしょうか?

そんな事はありません。

誰もが自然の摂理の中に、生活の中に、宇宙の運行の中にと、全ての現象の中にその息吹が存在している事に気が付くでしょう。

ただそれを五感以上に感じるだけでいいのです。


何も難しくはなかったのです。

そしてその善良な心を実際に生きて実践して行くだけでいいのです。

人間には全ての方々に自由と平等が与えられていますが、その自由と平等の概念を勘違いし,屈折して理解しているのが我々です。

それを理解しましょう。

つまらないことで私達の心が愛情の無い、「下の人間」「下の心」に成らないようにして参りましょう。


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